日常に寄り添うベーグルを 「bagel TORICO」吉田梨恵子さん

あなたのお気に入りはなんですか?
心が満たされるおいしいもの。
ほっとする空間。
会うと元気をもらえる人。
そんな些細な幸せがあれば、日常がちょっと豊かになる。
粕屋町のアパートの一室にある、『bagel TORICO』。
黄色い看板が見えると、つい足どりがふわっと軽くなってしまう。
扉を開けると、店主の吉田梨恵子さんが満面の笑みで迎えてくれた。

「日常に溶け込むような、地味にそこにある、みたいなお店でありたい」と話す吉田さんに、これまでの歩みやベーグルに込めた思いについて話を伺った。
いつもそこにある、身近なもの

むっちりとまんまるなTORICOのベーグル。
ころんと手のひらサイズが可愛らしい。
小麦の香ばしさが漂ってくるような焼き色に、ぐっと食欲がそそられる。
吉田さんに、ベーグルのこだわりについて聞いてみた。
「意識しているのは、体に優しくてたくさん食べても罪悪感がないこと。なので、なるべくシンプルな材料で、生地そのものの味わいを感じられるように作っています」。
TORICOのベーグルは、噛めば噛むほど「生地のおいしさ」があふれてくる。
北海道産の小麦粉と全粒粉、きび砂糖、塩、そして天然酵母。
シンプルであるからこそ、素材の持ち味が際立ち「うま味」が引き出されるのだろう。
「妊活をしていたときに食を見直したことが、素材選びのきっかけになりました。
余計なものはなるべく入れずに、子どもにも安心してあげられるものを作ろうと決めていましたね」。

材料にくわえて、ベーグルの『食感』と『大きさ』にもこだわりがある。
「だいたい1週間くらいかけて、じっくりと酵母を育てています。
時間をかけてでも天然酵母を使うのは、味わい深く、翌日もしっとり感が続く仕上がりになるからです。
そもそも、ゆっくりじっくり作るのが性に合っているし、そうやって作られたパンにすごく愛着がわくんですよね」。
「あとは、生地をこねるのに餅こね機を使っています。
もともと祖母の家にあったものを試しに使ってみたら、いけるじゃん!となって。
ほとんど手ごねなんですが、途中少し餅こね機に助けてもらいます。そうすると、独特のもっちり食感になるんです」。
時間をかけて気持ちを込めて、丁寧に作られたTORICOのベーグル。
歯切れがよく食べやすいモチモチ食感は、吉田さんの手と餅こね機の絶妙なさじ加減で作り出されているのだ。
「ベーグルの大きさにもこだわっています。
自分がいろいろな味をちょっとずつ食べたい人なので、それができる少し小ぶりなサイズにしました。このサイズなら、甘い系としょっぱい系の両方を一度に楽しめるかなって。
あと、子どもが自分で持って食べるのにちょうど良い大きさなのも気に入っています」。

ベーグルのことを話す吉田さんは、とても楽しそう。
「私が作るベーグルが一番好き」
素直でまっすぐな思いが伝わってきて、こちらまで笑顔になってしまう。
「君たちおいしいよ!」と太鼓判を押されてショーケースに並んだベーグルたちは、なんだか堂々としていて頼もしい。
TORICOのベーグルに思わず手が伸びてしまうのは、きっとそんな魅力がつまっているからだ。
決めたらうまく回りだす

以前はまったく別の仕事に就いていたという吉田さん。
ベーグルTORICOを始めるに至ったきっかけは何だったのだろう。
「コロナで仕事が長期休業になったときに、時間がたっぷりあったので、ふと”酵母を起こすところからパンでも焼いてみるか”と思いついて。もともとパンが好きでパン屋さん巡りもしていたので、興味本位で作り始めたんです。
このとき初めて作ったのがベーグルだったんですが、自分でもびっくりするほどおいしくて!そこからのめり込むように何度も作りました。こねるのも成型するのも最初は下手だったけど、少しずつ上達していくのが楽しくて。
パンのおいしさはもちろんなんですが、手を動かす作業がすごく好きだなと感じて、まさに私がベーグルの”とりこ”になっていったんです」。
自分で作る楽しさ、格別の味わい。
ベーグル作りの「とりこ」になった吉田さんは、この時間に救われていたと振り返る。
「当時、仕事や妊活の悩みで煮詰まったりモヤモヤしたり...なんかこう、気の巡りが良くないと感じることが多かったんですよね。
でも、ベーグルを作っている時間は無心になれた。生地の感触とか、一つひとつの作業に集中すると、心がスッと落ち着いたんです」。
そんな中、いつものようにパンをこねていたとき、急にこう思い立ったのだという。
「自分の好きな仕事をしよう」
パンと向き合う時間は、吉田さんが自分自身と向き合う時間でもあったのだ。
決めたらうまく回りだす。
そこから吉田さんは、これまでの仕事を辞めカフェで働き始める。
おいしいものを作って提供する、そしてお客さんの笑顔が間近で見られる、吉田さんの「好きな仕事」だ。
オリジナリティとバイタリティにあふれたそのカフェの魅力に惹かれた。
自分たちで考えて、その店「らしさ」をつくっていく仕事は、毎日が学びの連続でとても刺激になったという。
あるとき、吉田さんが手作りベーグルを差し入れに持っていったことがあった。
それを食べたオーナーが突然、「おいしいから、うちで焼いて出していいよ」とひと言。
「すごくびっくりしました。
趣味で焼いて、家族や友人にあげたり皆で食べたりするのを楽しんでいただけだったので、まさかお店で出すなんて。
でも、”せっかくの機会なんだから挑戦してみよう!”と思いましたね」。
カフェで学んだ「やってみよう」の精神で、吉田さんは新たな一歩を踏み出した。
趣味ではなく仕事として、ベーグルを作る。
商品として、自分のベーグルがお客さんの手にわたっていく。
「できるだろうか、売れるだろうか」と、不安と緊張がのしかかる日。
「おいしかったから」とリピートしてくれたお客さんの笑顔。
そこで得た経験すべてが、今の吉田さんの糧となっているのは間違いない。
カフェでベーグルを焼き、お店で販売するようになって数か月。
またもやオーナーから、思いもよらぬひと声が。
「自分でお店してみたら?」
「またまたすごくびっくりしました!(笑)
自分のお店を持つなんて、遠い遠い未来の話くらいに思っていたので。
でも、オーナーが”できるできる!”と、いい意味で簡単に言ってくれて…完全に背中を押されてしまいましたね(笑)」。

『自分の店を持つ』
頭の片隅に小さくぼんやりと浮かんでいた未来を改めて想像してみたら、不安よりワクワクが大きかった。
そしてやっぱり、決めたらうまく回りだす。
「祖父が残してくれた古いアパートに、ずっと空室があったんですね。このままにしておくのはもったいないと感じていて、内装デザインができる知り合いに相談したんです。すると、”この古さを活かした空間を作れるよ”と言ってもらえたので、ならばお店として使いたい!と家族に提案しました」。
背中を押してくれる人がいる。
場所もある。
協力してくれる人たちがいる。
「あれ、条件揃ってるじゃんって(笑)もう、”やれるかな”から”やってみよう”に変わっていましたね」。
そこから、自分たちの手を施しながらお店をつくりあげていった。
少しくたびれていたアパートの一室に命が吹き込まれ、やがて『bagel TORICO』の可愛らしい黄色い看板が立った。
吉田さんはまた新しいスタートラインに立ったのだ。
細く長く

吉田さんの胸にいつもある言葉は『細く長く』。
実は吉田さん、お店を始めてまだ間もないころに、新しい命を授かった。
喜びとともに、正直不安も大きかった。
「”オープンしたばかりで休むわけにはいかない”と、毎日必死でお店に立っていました。
悪阻がひどく、酵母やベーグルの焼ける匂いがダメになった時期は、本当にきつかったです。
自分にしかできない作業をして、横になって休みながら、茹でて焼くところは母にお願いして…なんとか営業していました。
家族にたくさんサポートしてもらい乗り越えられましたが、この経験があって改めて、健やかにお店を続けることへの意識がすごく強くなりましたね。
TORICOは、家族全員のお店という感じです。お店をつくるところからずっと家族が協力してくれて、私ひとりでは到底実現できなかった。本当に、感謝してもしきれません」。
「家族みんなが健やかであることが、お店にとって一番大事なこと」だと、吉田さんは噛みしめるように話す。
「優しいお客さんたちにも恵まれて、本当にありがたいです。行列ができてお待たせしてしまったときも笑顔で待ってくださったり、ベーグルの残りが少なくなったら譲り合ってくださったり。
なんかもう、涙が出そうなくらい、すごくあたたかいというか。そんな光景を見ると、もっといいお店にしようと力が湧いてきますね」。
お店の一角には、ニット帽やポーチなどが並んでいる。
TORICOのもう一つの顔、吉田さんのお母さまが編むニット製品たちだ。
『okan knit project』略して『OKP(オカペ)』の愛称で親しまれている親子ニットユニットは、今年で11年目。

OKPのニット帽は、一度かぶると「とりこ」になる。
包み込むような温かさや優しいかぶり心地は、手編みならでは。
デザインの良さも相まって友人づたいに輪が広がり、いろいろなお店やイベントで販売する機会が増えた。
「母のニットのお陰で、たくさんの縁ができて、人に恵まれて...それがすべて今に繋がっていると感じます。本当に、オカン様様です(笑)」。

TORICOの「なんかほっとする」空気感は、吉田さん家族のあたたかみが連鎖しているからだろう。
思えば、お店に生まれ変わったアパートも、ベーグルをこねる餅こね機も、家族がずっと大事にしてきたものたちだ。
繋がりを大切にする吉田さん。
bagel TORICOはこれからも、細く長く、日常にそっと寄り添うようなお店であり続けていくにちがいない。
今に感謝して、今を味わう

吉田さんは現在、店舗の営業はお休みして、通信販売の『ベーグル便』や新メニューの開発などに専念している。
育児と仕事。
今の素直な気持ちを聞いてみた。
「今、すっごくベストバランスだと感じています。
ベーグルの作り方を見直してみたり、新メニューを試作したり、お店を開けているときに中々できなかったことを、じっくりやれています。
子どもや家族との時間もとれるので、充実していますね。
”早くお店を再開しなきゃ!”と焦る気持ちもないわけではないですが、今は自信をもってお店を再開するための土台作りの時期だと思っています」。
定番の味から新しいメニューまで、多彩なラインナップのベーグル便。
お客さんを飽きさせない工夫とともに、通販ならではの新しい視点も生まれたという。
「通販はお客さんが直接手に取って選べるわけではないので、見せ方をより意識しましたね。箱を開けたときに、わあ~って喜んでもらいたいので、きれいに梱包するのはもちろん、手書きのお手紙を添えたり。顔が見えないからこそ、より丁寧に気持ちが伝わる工夫をしています」。

ベーグル便は店頭で受け取ることもできる。
久しぶりに訪れたTORICOは、やっぱりやさしい空気が流れていた。
ずっしり重たい紙袋をぎゅっと抱え、心をはずませて家路についた日。
一口かじって噛みしめると、幸せがじわ~っと沁みてきたこと。
なんてことない日常のひとこまだけれど、きっとずっと覚えているだろう。
TORICOのベーグルにはそんなシーンがよく似合うと、あらためて思う。
「育児をしていると、何もかも中途半端であっという間に1日が終わってしまって…。それで落ち込んだり焦ったり、自分を責める日もありました。
でも、そんな中で、いい意味で手を抜くことを知ったというか。そうしないとやっていけないんですけどね(笑)
少しずつ、自分に”ここまででOK”を出せるようになったと感じます」。
『細く長く』
迷ったときはいつだってここに立ち返る。
健やかに長く続けるための、今。
今を受け止めて、今を大事にすれば、きっとそれは未来につながっていく。
吉田さんに今後挑戦したいことを問うと、ワクワクする展望の数々を聞かせてくれた。
「お店を再開したら、父がDIYで作ってくれた机とベンチを出して、天気のいい日は外で食べられるようにしたいですね。
お客さんとのコミュニケーションも増えるし、お子さん連れでも一息つける場所になったらいいなと思っています。
あと、お店の奥のスペースを展示やワークショップに活用したいですね。こじんまりと使いやすいし、赤ちゃんがハイハイしても大丈夫な空間ですし。
それと、イベント出店とか…夏は手作りシロップでかき氷も出したいです!」。
TORICOがさらに賑やかに、笑顔あふれる場所になっていくのが目に浮かぶ。
吉田さんなら、家族ワンチームで楽しみながら実現していくことだろう。
「作ることと売ること両方できるから、今すごく満たされているんだと思います。
TORICOを始めて、”わたし、全部したかったんだな”って気づきました。自分が全部わかっているものを自分で売れるって、すごく特別な仕事です。
それに、おいしいものを作って食べるのが仕事って、最高です」。
生き生きとした表情で話す吉田さんがつくるベーグルは、やっぱりおいしいに決まっている。
細く長く、いつまでもそこにあるお店であってほしい。
bagel TORICOの黄色い看板が立つその日を楽しみに待ちながら、わたしの「今」にもそっと目を向けてみようと思う。
Instagram:
この記事の執筆者
福島県会津若松市出身。「モノ ・ コト ・ ヒト」を伝えて繋げるライター。




