石の美しさを再定義する「石材の修復師」株式会社玄繕・尾上千秋【第1章】

石は、何も語らない。街に、建物に静かに同化する。
けれど、その表面には時間が刻まれ、人の営みが映り、街の歴史が宿る。
その石が傷つき、輝きを失ったとき、もう一度『本来の美しさ』を取り戻す人たちがいる。
石材の修復師。


株式会社玄繕(げんぜん)代表・尾上千秋さんは、その世界に21歳で飛び込んだ。
「私自身、最初からこの仕事に興味があったわけじゃないんですよ」。
そう笑う尾上さんが、なぜ九州で数えるほどしかいない石材補修のトップランナーとなったのか。そして、新旧が交差する現代の建築現場で、彼女がどのような未来を見つめているのか。
今回は二部構成で、彼女によって紡がれた歩みを覗いてみた。
「とりあえず体験してみるか」から始まった職人の道
岡山から東京へ。
専門学校を卒業したものの、「これがしたい」という明確な目標は見つからず、飲食店でアルバイトをしていたという尾上さん。
その店に客として食事に来てくれていたのが、後に石材修復技術の師匠(親方)となる方だった。客として足を運んでくれる親方に、「うちの仕事を手伝ってみないか」と度々誘われたのだそう。


ただ、そんな仕事に興味があったわけではない。
話を聞いても、仕事内容はピンとこなかった。でも、熱心に声を掛けてくれる常連さんの誘いを無下にすることもできず、「とりあえず、体験してみるか」という軽いノリで、現場に出てみることにした。
初めて出向いた現場での作業は、素人の自分にも何とかこなせる程度。
「これなら、そんなに大変そうでもないし、自分にもやれるんじゃないかと。『よくやってくれたね、ありがとう!』なんて言われて、まんざらでもなくなっちゃって(笑)」。
そんなふうに、少し安易に捉えながら、親方の誘いを受けることにした。
だが、そこでの経験はこの業界の、ほんの入口にすぎなかった。
奥深い石の世界に、悔しさとともにのめり込む
石材メンテナンスの仕事は、洗浄・研磨・補修・防滑 と多岐にわたる。
汚れの種類や石の性質を見極めて薬剤を選ぶ「洗浄」。
失われた艶を一段階ずつ研磨して蘇らせる「磨き」。
欠けや割れを周囲と同化させる「補修」。
美観を損なわずに滑りを防ぐ「防滑加工」。
どれも簡単ではない。むしろ、どれも奥が深すぎる。
特に尾上さんを悩ませたのは、石の色を再現する補修作業だった。
「石材補修のために、元の素材と同じ色合いの接着液を作ろうとするんですけど、これがなぜか上手くいかない。親方と同じ液剤で、同じ割合で色素を混ぜてみるんですけど、イメージ通りに色が再現できないんですよ」。

「それが本当に悔しくて。親方を真似てるのに、真似できないというのが。この色にこの色を足したら、こうなるはずだって思うんですけど、求める色が出ない」。
その悔しさが熱意となり、知識となり、確実にその技術を重ねていった。
できないことをできるようにする日々。
21歳の尾上さんは、想像もしなかった世界で、『できない悔しさ』をバネに成長していった。
物差しのない世界で、自分を磨き続ける
「この仕事って、国が認定するような特別な資格があるわけじゃないんですよ。自分でも仕事に箔が付くならって思い、専門資格を調べてみたんですけど、その知識や技術を明確に評価し、認めるような資格はないんです」。
それは、彼女の向上心や積み重ねた技能を、評価する物差しがないということ。
「どこまでやれば、どこまでできるようになれば一人前と言えるのか、図りようがなかったし、正直、自分のレベルに満足感を感じたこともなかったですね」。
評価軸がないことが、彼女の向上心を衰えさせることなく、さらに自身を磨き続けさせたのかもしれない。だからこそ、尾上さんは『限界を決めない』という道を選んだ。

決して容易な作業ではなく、奥が深いからこそ、石の美しさを保つこの仕事には、各ジャンルごとに専門の職人さんがいるのだそう。
洗うことのプロ、直し修繕することのプロ、磨き上げるプロなど。それぞれが得意な分野で作業を細分化して担うことが多いのだという。
だが、尾上さんはそれらの偏りなく、できる限りすべてを自分で担う、オールラウンダーであることを目指した。
もちろん、職場ではチームとして役割を分担する。
それでも、どんな役割も自らがこなせる知識・技術を得ていこう。そんな意識で、様々な現場・作業に向き合った。
親方への敬意と、東京を離れる決断
実は、「石材の修復師」と言って誰にでも伝わるほど、この職業はメジャーな仕事ではない。
そもそも、『石を美しく保ち、磨き、修復する』という仕事は、まだ40〜50年ほどの歴史なのだそう。戦後の限られた需要から、一つの専門領域として広がりはじめた。
その後、バブル期の高需要で市場性も広がり、現在では、東京エリアだけでも十分に仕事が得られるだけの需要があるのだという。
しかしながら、この世界に職人は数えるほどしかいないのだそう。その職人の多くは、尾上さんが師と仰ぐ親方の元から輩出されているという。
尾上さん自身も、石材の修復師として、一人前になった自覚を感じてはいない。
「客観的には、3〜4年ほどで一人前と呼べる程度の技能は得られるとは思いますよ。でも、そのレベルに達してきたことを自分で自覚したことはないですね」。

東京の親方の元で技術を磨く日々。
親方の会社には十分な仕事の依頼が入ってくる。
需要が衰えることへの懸念はなかったが、請負う業務の多くを担うことができるようになった尾上さんへ、直接仕事の相談が入ってくることも増えてきた。
任されることが拡がることはうれしかったし、頼られることで、さらにやる気を高めたという。
ただ、「独立」という思いが募り始めた尾上さんにとって、それは、大きな決断を求められる、重要な立場の変化であった。
「東京で独立すれば、たくさんの繋がりもあるし、支えてくれる仲間も多かったはずです。需要も大きいし、仕事も十分に得られたでしょうね」。
だが、自分を育て技術を与えてくれた親方のそばで、その市場に甘えてはいけない。信頼してきた親方と、仕事の現場で相対することはできない。そんな職人としての恩と敬意があった。
21歳で踏み込んだ石と向き合う世界。
気付けば10年以上の修行の時を経て、30歳も半ばの歳になる。
自らの力で、培ってきた知識と技術で、「独立」という大きな門を開く。
その場所は、東京ではない。では、どこで挑戦する? 他の弟子たちも含め、北海道や大阪・名古屋など大都市圏では、すでに先行者がいた。
そこで尾上さんは、福岡を選んだ。福岡では、まだそれほど市場は開拓されていなかったのだ。
「でも、福岡を選んだことに、それほど深い思い入れや縁があったわけではないんです」。
「長崎につながりのあった職人仲間がいて、同じ九州なら心強いかも、って。でも実際は、福岡から長崎って結構遠いじゃないですか。だから、今も年に数えるほどしか彼にも会えてないです。そんなことも想像できないまま、ここに来ちゃったんです(笑)」

気さくで、屈託のない笑顔。
自分自身を飾らずに、ありのままを話してくれる尾上さんの人柄を感じながら、取材は第2章、「独立後のストーリー」へと続いていく。
「石の美しさを再定義する」
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この記事の執筆者
銭湯 梅の湯(跡)の番台さん





