まずは、目の前の人から笑顔に。かまぼこ職人『西門蒲鉾本店』野田彩代

背よりも高い蒸し器の扉が開くと、白い湯気がもわっと押し寄せてきた。
それが天井へ散っていったあと、姿を現したかまぼこは、入れる前よりもふっくらと膨らみ、つやつやと光沢を放っていた。堂々とした佇まい、としか言いようがない。
ふわりと立ちのぼるすり身の香りが、鼻から入って、そのまま腹の底を刺激する。
博多の街中で113年前から、かまぼこを手作りで作り続けている『西門蒲鉾本店』。
ここで手を動かしているのが、工場長の野田彩代さん。3代目である父の娘として生まれ、この道19年。だがその始まりは、3年間ひたすら洗い物をする日々だった。
遠い国の子どもたちに、会いに行くはずだった

かまぼこ屋の娘として生まれた。だが、跡を継ぐつもりは、まったくなかった。
「かまぼこ屋コンプレックスだったんです」。
幼い頃は、生の魚を扱っていた時代。臭いが体に染みつき、同級生の男の子には「魚くさい」と言われたこともある野田さん。憧れたのは、お菓子屋さんだった。
そんな野田さんの目を大きく開かせたのは、道徳の授業で学んだマザー・テレサ。「自分もいつか誰かを助けられる人になりたい」という思いを募らせていく。
調べているうちにカンボジアに行き着いた。内戦で親を亡くした子どもたち。地雷、人身売買、蔓延する病。自分にできることを求めて、福岡の支援団体に入り、募金活動やスタディツアーで、実際に現地へも渡った。
命の保証はない、と書かれた書類にサインをして、地雷原にも足を踏み入れたこともある。
現地の人が「道を歩くときはね、まず犬を歩かせるんだよ。そのあとに、女の子を歩かせる」と言ったのが忘れられない。そんな厳しい暮らしのなかでも、人懐っこく笑う子どもたちに出会い、
「この子たちのために、何かしたい」。
という思いはますます膨らむ。大学卒業後は契約社員としての4年の契約が満了したら、カンボジアへ行く。家族にもそう宣言していた。
まずは、目の前にいる人を
契約が満了し、次の道へ進むまでの猶予期間。家にいる時間が、久しぶりに増えた。

店番を手伝い、お店について気づくことがあった。
1つは、お客さんがここの味を求めて来てくれていること。
「ここのかまぼこが一番おいしい」。
「入院してるおじいちゃんが、これだけは食べたいって言うから」。
足の悪いおばあちゃんが、タクシーでわざわざ買いに来てくれることもあった。
そして、もう1つは、父の代で店を畳むつもりでいること。
工場には職人が2人しかおらず、2人とも高齢。ふと、家業を見つめた時に「多くの人が愛してくれている味が、途絶えてしまう」と気がついた。
この仕事の大変さを、誰よりも知っていた両親からは、一度も「継いでほしい」とは言われなかったという。「西門蒲鉾店の味」が途絶えてしまう⋯野田さんの中で長い葛藤が始まる。
悩んだ末に出した答えは、まずは「西門蒲鉾店で多くの人を笑顔」にすること。
25歳の野田さんの大きな決断だった。

開けたら、もう戻れない扉
取材の際、実際にその扉を見せてもらった。倉庫の入口にあるような、重く、冷たい金属の扉。家庭と、職人の世界とを隔てる境界線のような一枚。
職人側で働く初日、野田さんはその扉の前で、30分間立ち尽くした。
「一度入ったら、もう辞められないから」。
誰かに「やれ」と言われたわけではない。自分の意思で決めたことだからこそ、逆に引き返せない。頭では分かっていた。それでも、扉に伸ばした手が、なかなか動かなかったという。
ようやく開けた先に待っていたのは、想像とはまるで違う世界だった。
「出てきたね、とか言われるわけでもなく。何をしろ、と言われるわけでもなく。一日が、とても長かった」。

何をすればいいのか分からず、メモ帳を握りしめたまま、自分が入れる場所を探した。そして見つけた仕事が、洗い物だった。
それから3年間。任されたのは、洗い物と、すり身運びだけだった。
「教えてもらえない時代ですね。聞けるような環境でもなくて」。
娘だからと、甘やかされることはなかった。中卒で住み込みから叩き上げてきた職人たちには、生半可な気持ちで入られては困る、という思いもあったのだろう。
正解を教えてくれる人もいない。その中でも彼女は学ぶために、自分なりの「合図」を見つけた。
「褒めてもらえることは、まずないです。何も言われないときが、正解なんです」。
道具を置く場所も、すり身を出すタイミングも、自分で考え試行錯誤を繰り返した。置いた場所を黙って直されたら、次からはそこに置く。睨まれたら、違うのだと察する。
誰にも褒められない工夫を、毎日積み重ねた。
「そうしないと、心が折れちゃうから」。
「自分のやり方を見つけていきなさい」
転機は、職人の一人が辞めたことだった。
残ったのは、工場長と野田さんの2人。引き継ぎもないまま、記録を見ながら作り方を考える日々が始まった。すり身を機械にかける作業、調味料を入れる作業、練り上げる補助。少しずつ、任される仕事が増えていった。

その工場長が、あるときから口にするようになった言葉がある。
「僕はこう言っているけど、自分のやり方を見つけて、自分がやりやすいようにやるといい」。
その一言が、野田さんの肩の力を抜いた。
「ガチガチじゃなくていいんだ、って。すごく軽くなりました」。
やがて工場長も、高齢となり現場を去っていった。野田さんが結婚するのと、ちょうど同じ時期だった。最後の日も、特別なことは何もなかった。
「明日また来そうな雰囲気だったけど、次の日からいなくなっちゃって」。
残されたのは、野田さんと、引き継ぎのために少し前から入ったもう一人の職人だけ。
「ドキドキして。目の前のことをやるのが精一杯でした」。
嬉しさと、責任の重さが、同時に押し寄せた。人の口に入るものをつくる仕事だ。すべての判断が、自分にかかってくる。
それでも、工場長の言葉は、今も工場のあちこちに残っている。
「振り返ってみれば、本当に大事なことは、何度も言ってくれてたんだなと思います」。
温度は必ず何度に保つこと。そして、口を酸っぱくして言われ続けた、ひとつの教え。

「きざみ天だけは、絶対に切らすな」。
刻みは、切れ端を集めてビニールに詰めた、店で一番古くて一番安い商品だ。それでも、それだけを求めて来る客がいる。だからどれだけ忙しくても、合間を見つけて作る。
そして今は、野田さんが同じ言葉を職人仲間に口にしている。
「聞き飽きたと思うんですけど、あえて言うようにしてます」。
一本ずつ、手で巻く理由

すり身は、生きものだ。
温度が上がれば硬くなる。夏場は、人の手の温度だけで蒸し上がってしまうこともある。南の海で育った魚と、北の海で育った魚とでも扱いが変わり、北の魚のすり身は温度が上がるとボソボソになって使えなくなる。
だから野田さんは、作業中に熱くなってきたと感じると、氷水で手を冷やしながら作業を続ける。

型を抜く手つきは、細やかで速い。柔らかく崩れやすそうな生地なのに、余計な線ひとつ入らない。19年分の手加減が、迷いのない動きになって表れている。
そして、かまぼこ作りは想像以上に力仕事でもある。

取り寄せているすり身のかたまりは一枚10キロ。すり上がったものは一缶20キロになり、それを一日に何度も持ち上げて運ぶ。
「常に筋トレだね、って整体師さんに言われます」。
工場に入ってから、十数キロ痩せた。腕には、はっきりと筋が浮いている。
ちくわも、一本ずつ手で竹に巻いていく。年末には、1200本を巻くこともある。
「手が、ありえないくらい痛くなるんですよ」。
型に入れたすり身を取り出し、包丁で持ち上げながら、竹に巻きつける。ほんの一瞬の動きだ。野田さんはこともなげにやってのけるが、その手つきを見ていると、とてつもなく難しい技であることが伝わってくる。
機械を入れれば、もっと早い。実際、出回っているちくわの多くは機械で作られている。それでも野田さんは、手で巻くことをやめない。
「一本一本、自分で巻いているから。どういう方が食べてくださるのかな、喜んでくれたらいいな、って一個一個に思いを込められるんです。手間はかかるけど、その分、心を込められるから。だからやめられない」。

「タイパって言われる時代に逆走してるなって思ってます」と野田さんは笑う。
けれど、氷水で冷やした赤く痺れる手で巻かれたちくわは、機械には決して出せない「やさしさ」という隠し味が込められてる。
「この子も疲れてるんだな」

年末の一番忙しい時の朝5時。まだ誰もいない工場で、野田さんは一人で作業をしていた。ふと機械に触れたとき、涙がこぼれたという。
「私が疲れてるってことは、この子も疲れてるんだなと思って。ありがとう、って言いながら触ってたら、泣けてきて」。
懐かしそうに笑いながら当時を振り返る野田さん。けれど、思い出すうちに、その目のふちが少しずつ潤んでいく。
昭和から動き続けている機械が、工場にはいくつもある。40年使い続けているものもあるそうだが、どれもピカピカに磨き上げられていて、丁寧に手入れがされていた。
「愛情を込めてやれば、機械にも心が宿るって、何かの映画で見たんです。本当にそうだなと思って」。
道具は、ただの道具ではない。19年、野田さんの隣で働いてきた仲間として大事にされていることが痛いほど伝わってきた。
憧れは、ここで叶っていた
工場の棚には、色とりどりの型が並んでいる。クッキー型に、菓子材料店で買った抜き型。3Dプリンターで作られた作家ものの型もある。
「こんなに型を持ってるかまぼこ屋さんは、うちくらいじゃないかな」。
憧れていたのは、お菓子屋さんだった。その夢は、思いがけない形で叶っている。
「お菓子屋さんの技術を、かまぼこでやってる感じですね」。

バラの花びらを一枚ずつ重ねたかまぼこ。似顔絵のかまぼこ。ある水族館から依頼されるキャラクターのかまぼこは、夏休みの繁忙期には週に3500個を作る。白を打ち込み、ピンクを重ね、型で抜き、黒で表情を入れる。すべて手作業だ。
「たった一個のものが出来上がるし、頼んでくださる方の思いも入っている。渡して喜んでもらえた時の喜びを、こっちも受け取ると、大変だった疲れが飛ぶんです」。
そう話す野田さんの瞳は、きらきらと輝いていた。
申し訳なさと、ありがたさと

2人の子どもがいる。どちらのときも、産後1ヶ月で工場に戻った。
「職人だから、本当に代わりがいなくて」。
赤ん坊は、工場の奥で授乳しながら育てた。まだ小さかった頃、店のスタッフに抱かれて泣きやまない我が子に、誰かがこう声をかけたことがあった。
「ママ、頑張ってるね」。
すると、目に涙をいっぱい浮かべながらも、ぴたりと泣きやんだのだという。
「それでこっちが泣けてきちゃって」。
休みは少ない。子どもの休みと重なる日は、ほとんどない。それでも子どもたちは、「どこか連れて行ってよ」とは一度も言わない。
「申し訳なさと、ありがたさと。いろんな感情が入り混じったまま、ここまで来ました」。
今、上の子は13歳、下の子は10歳になった。
「もう、私が助けられてます」。
その相手は、いま目の前にいる
カンボジアへの夢を、忘れたわけではない。
今も、現地の子ども一人分の学費を支援し続けている。その資金は、自分の子どもたちのおこづかいから、少しずつ出してもらっているものだ。
「ちょっとおやつを我慢したら、この子が学校に行けるから、って話して」。
先日、支援している男の子から手紙が届いた。ありがとう、と書かれていた。

これからやりたいことを尋ねると、野田さんはこう答えた。
「かまぼこの良さを、もっと伝えたいんです」。
工場見学に来た子どもたちが、目を丸くする瞬間がある。かまぼこが魚からできていること。一本に、魚が3匹も4匹も使われていること。
「知らないまま大人になる子もいるから。そういう良さを、伝えていきたい」。
汗をかきながら店に来てくれるお客さん。おいしそうに頬張る子どもたち。目の前にいる人たちの顔が、いま彼女を工場に立たせている。
かつて「魚くさい」と家業を嫌い、カンボジアの地雷原へ向かった少女。
彼女を突き動かすのは、いつも「自分」ではなく「困っている誰か」だった。
カンボジアの子どもたちへの支援も。アレルギーでケーキが食べられない子のために作られた、オーダーメイドのかまぼこも。足の悪いおばあちゃんが、タクシーに乗って買いに来てくれる一本のちくわも。この味を途切れさせないことも、野田さんにとっては、すべて等しく「誰かを助け笑顔にする仕事」なのだ。
マザー・テレサに憧れて動き出したその日から、彼女の志は一度もブレていない。ただ、その順番を、目の前にいる家族と、博多の食卓から始めただけだ。
彼女は今日も工場で、氷水に手を浸しながら、愛おしそうにすり身を包み込む。
【西門蒲鉾本店】
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