「どうにかなる」の根拠は、どうにかなってきたこと。ステンドグラス作家・中村綾子(A’s glass)

「好きなことを仕事にする」
誰もが一度は夢見ながら、不安や現実を前に、そっと諦めてしまう言葉ではないだろうか。
「プロには向いていないかもしれないね」。
今から25年前、修業を始めたばかりのアトリエで、師匠からそう告げられた女性がいる。
何の知識も技術もないまま、履歴書をバッグに忍ばせて扉を叩いた、手先の不器用な弟子。
普通ならそこで心がしぼみ、諦めてしまうかもしれない。
しかし、彼女はその場所にとどまり、やがて海を渡り、そして帰国してからも、自らの手で運命の扉を何度も叩き開けていくことになる——。
揺るがない人
福岡市中央区・福浜。みずほPayPayドーム福岡からほど近い場所にある、中村さんのアトリエ兼自宅を訪ねた。アトリエを設立して、今年で19年になる。
迎えてくれた中村さんは、物腰も言葉もやわらかな人だった。「人と接することが、あまり得意ではないんです」と本人は笑う。
けれど、話をしていると、強く心に残るものがある。
まっすぐに相手を見つめる、迷いのないまなざしだ。

写真提供:中村綾子さん
玄関を開けると、色とりどりのステンドグラスが迎えてくれた。

天井には枝が這うように飾られ、黒い壁にランプのやわらかな灯りが映る。
アトリエへ足を踏み入れた瞬間、思わず見入ってしまった。

この部屋は、友人とともに自分たちの手でリノベーションしたのだという。
壁や棚には手がけた作品が並び、中央には大きな作業台。
360度、好きなものに囲まれて、中村さんはここで暮らし、作品を作っている。

中村さんとステンドグラスの出会いは、30年近く前の卒業旅行だった。
心に残り続けた、旅先の光
卒業旅行で訪れた、フランス・ノートルダム大聖堂。
その美しいバラ窓に、中村さんは目を奪われた。
「こんなにきれいなステンドグラスがあるんだ」
その光景は強烈な印象として心に残った。
ただ、このときはまだ、ステンドグラスを仕事にしようとは思っていなかった。
旅行関係の専門学校を卒業した中村さんは、そのまま旅行会社へ就職する。
絵や工作といった、ものづくりとは縁のない進路だった。
転機が訪れたのは4年後、24歳のとき。この先の人生をじっくり考える時期があった。心にあったのは、ふたつの思いだ。
「一生、仕事をしていきたい」
「どうせするなら、自分が好きなことをしながら生きていきたい」
そこから考えたとき、ふと疑問が湧いた。
いまの仕事を、一生続けていくのだろうか。一生続けられる仕事とは、何だろう。
浮かんだ答えは、「手に職」だった。
手に職、といっても、資格のようなものではない。彼女が思い描いたのは職人だった。
どんな職人になるか。もともとガラスという素材が好きだった。
そして、フランスで見た光景がよみがえる。
ステンドグラスだ。
教えてくれる人を探していたある日、書店で手に取った一冊の本に、ステンドグラス作家のプロフィールを見つける。
会社員を経て作家になった、という経歴。自分と重なるその歩みに、話を聞いてみたいと思った。
それが、福岡県那珂川市にアトリエを構える、のちの師匠だった。
履歴書を、バッグに忍ばせて

アポイントを取り、アトリエを訪ねる。まずは話を聞くだけのつもりだった。
それでも中村さんは、バッグに履歴書を忍ばせていた。
「一応、持っていったんです」。中村さんは、少し照れたように言った。
アトリエで目にしたのは、師匠の手から生まれる、美しい作品の数々。
話を聞くうちに、思いは固まっていた。
「ここで働きたい」。
そう伝えて、履歴書を差し出した。
答えは「NO」。
技術のない未経験者に任せられる仕事はなく、スタッフを募集していたわけでもない。
ただ、話を聞きに来ただけのはずの訪問者が、履歴書まで持ってくるとは、完全に想像の外だったのだろう。師匠は中村さんを「面白い子だ」と思ったらしい。
「仕事が休みの日に、手伝いに来てみたら?」
師匠の言葉をきっかけに、中村さんは週末ごとにアトリエへ通うようになった。

写真提供:中村綾子さん
「もともと、すごく不器用だったんです」。
経験のない中村さんにできることは少なく、手伝うどころか、かえって迷惑をかける場面も多かったという。
それでも、通うのをやめなかった。
やがて「会社を辞めて、ここで働きたい」という思いを、何度も師匠に伝えるようになる。
その熱意に押されるように、師匠はついに中村さんを弟子として迎え入れた。
「ステンドグラスの技術を、次の世代へつないでいきたい」という師匠自身の思いもあったのではないか。中村さんはそう振り返る。
会社を辞めて職人の道へ。
母は心配したが、父は「好きなことをしなさい」と応援してくれた。

写真提供:中村綾子さん
こうして、ステンドグラス職人としての修業が始まる。
しかし、待っていたのは厳しい現実だった。
「プロには向いていないかもしれない」
修業を始めて間もないころ、師匠から告げられた言葉がある。
「趣味ならいいけど、プロには向いていないかもしれないね」。
手先の不器用な弟子への、率直な評価だった。
「そのときは、『厳しいな』『どうしようかな』とは思いました」。
それでも、辞めるという選択肢は浮かばなかったという。
「長く続けていけば、技術は何とかなるものなので」。
中村さんは、あっさりとそう振り返る。
技術は、先輩たちに教わりながら、仕事のなかで覚えていった。
給料は出ていたものの、生活はギリギリ。
修業中は、何度も泣いた。下積み時代に、そういう涙を流した覚えのある人は、少なくないだろう。
それでも、
「やっていることがすごく楽しかったので、別にしんどいと思ったことはなかったんですよね」。
なぜ、そんなに楽しかったのか。
「自分の中にあるイメージが、カタチになる。自己表現ができる。その喜びがあったんです」。
好きなものに、一日中、手を動かして向き合っていられる。それ以上に満たされることは、なかったのかもしれない。
そうは言っても、苦労がまったくなかったわけではないはずだ。その陰影も知りたくて、角度を変えながら尋ねた。修業中と独立後、どんな苦難があったか。折れそうになった瞬間はなかったか。
どう聞いても、答えは「楽しかった」に戻ってくる。
何度も泣いたはずの日々。その中身を尋ねると、「意外と、忘れてるのかもしれないですね」と笑う。
人生の休憩、のはずだった

写真提供:中村綾子さん
修業を始めて4年。独立という選択肢も、考え始めていた。
しかしその前に、一度、海外で暮らしてみたかった。
「4年間ステンドグラス漬けだったから、ちょっと人生の休憩がてらと思って」。
ワーキングホリデーを利用し、1年間の予定でカナダへ渡る。
そのときは、現地でステンドグラスをするつもりはなかった。
ところが、時間ができると、気づけば現地のステンドグラス工房を訪ね歩いていた。
訪ねた工房は、どこも技術的には日本と大きく変わらない。飛び抜けていいと思う場所には、なかなか出会えなかった。
そんな中、一軒だけ、心を奪われる工房があった。
日本では見たことのない技法と、美しい作品。
「ここで働きたい」。
そう思った中村さんは、日本で制作した作品集を持って工房を訪れた。
返事はまたしても「NO」。それでも諦めず、何度も足を運び続けた。
ある日、一日限りのワークショップに誘われる。参加者は6人ほど。
中村さんは開始前から工房へ行き、準備の様子から見学した。
ワークショップが終わると、ほかの参加者たちが帰る中、一人だけ残って片付けを手伝った。
「自分では普通のことだったんですが」。
本人にとっては当たり前のその振る舞いに、工房のスタッフは感心し、そして「面白い子だな」と興味を持ったらしい。
仕事に対する真摯な姿勢が、言葉や文化の違う国で、技術以上の信頼を勝ち取ったのかもしれない。
その後、修復の仕事を任されることになり、迷わず引き受けた。
後になって知ったことだが、それは技術を見極めるための試験だった。
「この子なら大丈夫」。そう判断され、中村さんは工房へ迎え入れられた。
ワーキングホリデーは本来1年間。
しかし、大きな仕事が終わるまで残ってほしいと引き留められ、滞在は1年半に及んだ。
ご縁と、タイミングと
帰国後、中村さんは福岡市・大名にアトリエを構えた。
仕事も生徒も、まだ何もない。文字通り、ゼロからのスタートだった。
まずはフリーペーパーに教室の広告を出した。
アトリエが入っていたのは、築50年ほどの古いビル。
入居者が自分たちで部屋を改装し、自由に使えるリノベーションプロジェクトが始まったばかりだった。
同じ時期に入居したのは、作家やものづくりに携わる人たち。入居者同士で交流し、イベントも企画した。
当時は、古いビルを改装してアトリエとして使うこと自体が、まだ珍しかった。
築年数を重ねた建物に作り手が集まり、生まれ変わっていく取り組みは注目され、メディアにも取り上げられた。
記事やイベントをきっかけに、教室へ通う人や制作を依頼する人が、少しずつ増えていく。
「タイミングにも、ご縁にも恵まれたと思います」。
それにしても、と思う。
未経験のまま会社を辞め、単身で海を渡り、あてもなく独立する。食べていけなくなる不安は、なかったのだろうか。
「失敗しても、どうにかなると思っていたんです」。
そして、こう続けた。
「『どうにかなる』と思えるのは、これまで何度も、どうにかなってきたからですね」。
修業も、カナダも、独立も。
一歩踏み出すたびに、中村さんは「どうにかなる」を積み重ねてきた。
「仕事と趣味を、分けられなかった」
趣味を尋ねると、中村さんは少し考え込んだ。
「私、趣味がそんなにないんです」。
強いて挙げれば、旅行。音楽は流し聞きする程度だという。
生活のための「ライスワーク」と、生きがいとしての「ライフワーク」。会社勤めなら、この二つは自然と分かれていくものですけどね——。そう話を向けてみると、中村さんはこう答えた。
「私は分けなかった。というより、分けられなかったんですよね」。
ステンドグラスは、中村さんにとって仕事であり趣味であり、生活そのものと分かちがたいものになっている。
自宅の窓にも、自身のガラス作品が入っている。時間ごとに、差し込む光の色は移り変わる。

自宅キッチンの窓
一日のなかで一番好きなのは、朝の光だという。
窓を通した光の色が、暮らしにやわらかな彩りを添える。
「ステンドグラスって、なくても生活に支障はありません。でも、一度取り入れると、ないと寂しく感じるんです」。
走り続けて、いま
中村さんは、教会や住宅・店舗のステンドグラスを手がけるほか、教室や制作体験も行っている。
教室に来るのは、子育てを終えた人や、退職を機に「前からやりたかった」と、長年の憧れを叶えに来る人が多い。
一方で、会社勤めなどで日々ストレスを抱えた人が、教室で気分転換していく姿もある。それを見ていると、「教室をやっていてよかった」と思うのだという。

写真提供:中村綾子さん
アトリエのホームページには、「日常生活に豊かさと彩りを」という言葉が掲げられている。 伝統的な技術を大切にしながら、ステンドグラスという固定概念にとらわれない「アートグラス」を提案する——。
神棚や仏壇など、住む人の想いに合わせた作品づくりは、その姿勢の表れだろう。

写真提供:中村綾子さん
約3年前には、これまでで最も大きな仕事となる、教会のステンドグラスを制作した。
打ち合わせから完成まで、4か月もの期間をかけた案件だった。

中村さん制作のカトリック久留米教会のステンドグラス(写真提供:中村綾子さん)
「こんなに大きなものを依頼してもらえるようになったんだな、とは思いました」。
順風満帆に見える。けれど、作家として認められたと感じた瞬間はあるか、と尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「全然。いまでもそんなに認められたとは思っていないです。安定しているという感覚もない」。
いまも、走り続けている。
社会環境の変化に伴う難しさも、感じている。
円安と原材料の高騰で、ステンドグラスを身近なものとして手に取ってもらうハードルが、年々上がっていること。
そして、この技術を次の世代へどう繋いでいくか、ということだ。
小さな作品が作れれば、大きな作品も作れる——そう思うかもしれない。
けれど、 小物と教会の窓のような大作とでは、必要な工程も技術もまるで違うのだという。だからこそ、大きな作品を手がけられる職人は、そう簡単には育たない。
「職人の人口が、増えたらいいなと思います」。
中村さんの仕事は、依頼主との対話から始まる。ふわっとしたイメージから、こういう感じかな、と汲み取って絵を起こす。そこが一番悩ましい。けれど、話しているうちに、頭の中にふんわりと形が浮かんでくるのだという。
長く憧れたステンドグラスを、住まいにようやく迎える人もいる。
完成した作品を前に、嬉しいと言ってもらえるのが、何よりの喜びだ。
なぜ諦めなかったのか

写真提供:中村綾子さん
師匠に「向いていない」と言われても。
カナダの工房で門前払いにあっても。
中村さんは、諦めなかった。
理由を尋ねると、答えはいつも変わらない。
「好きだったから」。
好きだというだけで、ここまで貫ける。それができる人は、それほど多くないだろう。
自分には、そこまで夢中になれるものがあるだろうか……。そう思うと、中村さんの生き方が、少しまぶしく見えた。
中村さんは言う。
「好きなことがあるんだったら、それに向かって進んでいれば、何でもどうにでもなるんじゃないかなと思います」。
簡単に真似のできる生き方ではない。 それでも、彼女の歩みを追っていると、ふと考える。
私たちは「どうせ無理だから」「向いていないから」と、自分の「好き」に、いつのまにか蓋をしてはいないだろうか。
天井から下がる手づくりのランプが、静かに灯る。
今日もまた、中村さんは使い込まれた作業台で、大好きなガラスと向き合っている。
【A’s glass】
HP:https://asglass.net/
公式リンク一覧:https://lit.link/asglass2589
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